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ハロウィン・アンソロジー企画用 『トリック・オア・トリート』

 粉雪が舞う季節だった。放課後の美術室は西日が眩しかった記憶がある。頬を染め、君が渡してくれたのは、綺麗にラッピングされたチョコレート。僕は折角の好意を、ぶっきらぼうに突き返してしまった。君は俯いて、僕に表情を見せないまま走り去っていったよね。
 あれから半年。相変わらず僕は美術部の冴えない顧問で、君は春の進級で部長になった。部員数が三人の我が部は、マイペースなキャラ揃いで、時間通りに集合出来た試しがない。今日も顧問と部長は、美術室で二人きり。あのバレンタインの出来事以降は、気まずい空気が流れるのを覚悟していたが、君は淡々と日々を過ごしている。その押し付けない優しさが僕を救ってくれた。
「先生、次はこれをモチーフにして描きませんか?」
 部長らしく提案した君が、重そうに運んできたのは、バスケットボール程もある南瓜。
「だって、もうすぐハロウィンですよ」
 君が部長になってから、分かってきた事がある。イベントが大好きだっていう事。
 新入部員の歓迎会、七夕、夏休みの合宿、そして今日はハロウィンか。季節の折り、君は色々な表情を見せてくれた。ふわりとした笑顔、さらさらした長い髪がたなびく。はしゃぎ回って、他の部員に窘められたりもしていたね。そんな君を見る度に、僕の心に、小さな明かりがともるようになったんだ。
 口に出してはいけない感情。僕は教師で君は生徒。学校での明かりが華やかな分だけ、仕事を終え一人過ごす自宅での夜は、薄暗くて淋しい。こんな気持ち、君に出会うまで気付かなかったよ。
「南瓜って硬い……」
 気付けば君は、橙色も鮮やかな塊を、彫刻刀で懸命に彫っている。
「何しているんだい?」
「ジャックランタンを作ってみようと思って」
「相変わらずこういう行事が好きだなあ」 
 イベント好きの君。何故チョコレートをくれようとしていたんだろう。僕だけにだったのだろうか。……駄目だ、考えちゃいけない。君は優しいから、他の人にもあげたに違いない。きっとそうだ……。
「痛っ」
 咄嗟の行動。彫刻刀で傷ついた君の指に、口唇を押しあててしまった。
「あ……」
 慌てて離れると、君のはにかんだ笑顔が咲いた。
 大丈夫だと言われ、言葉が詰まった。これ以上何かを喋ったら、関係が壊れてしまいそうで怖くなる。
「皮一枚切れただけだから、余計に強く痛みを感じるのかな」
 絆創膏を貼りながら、何事もなかったかの様な振る舞い。君の動揺を期待している自分に気がついて、苦笑いが浮かぶ。
 口唇に残るほろ苦い甘さ。子供の頃にねだって食べたお菓子のようだ。あの冬に戻れるのなら、もう絶対にチョコレートを返したりなんかしないよ。
「トリック・オア・トリート」
 お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ。
 ひとりごちた僕に、まだハロウィンじゃないですよと笑いながら、君はひと粒チョコをくれた。
 君の事が大好きだ。
 いつか言えるといいな。玄関先で叫ぶ子供のように、大きな声で。
         
―FIN―
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『MOTHER CALL』 4

  *

 二日後。弥生は201号室を訪れた。
 病室の主、吉田真里亜はベッドから体を起こし、窓の外を眺めていた。
「お加減はいいようですね」
「はい、お蔭様で……」
 弥生は真里亜の側に近付く。
「赤ちゃんの名前は決まりました?」
「まだです。でも我が子って可愛いですね。産んで初めて気付きました」
 母になった喜びの表情を見せる真里亜。弥生は躊躇いながらも切り出した。
「ねえ、吉田さん。『新人が入ると現場が荒れる』って言葉、知っていますか?」
 聞いた途端に、みるみる真里亜の表情が硬くなる。
「その言葉を知っているって事は、やっぱり貴女が〈もう一人の新人〉だったのね」
 弥生が気になっていたのは、真里亜の産後の様子だった。真里亜は救急車で運ばれてきた。破水後、三十分と経たない内にベビーが産まれてしまったのだ、自宅で。所謂、〈墜落産〉。
 こんな事はこの小さなクリニックでは、十年に一度あるか無いかの出来事だ。弥生も初めての経験で、患者の前で動揺してしまわないか不安だった。搬入玄関に汚れ防止のビニールを敷き、術衣を着てそわそわしながら救急車の到着を待った。
  林ドクターが車内で臍の緒を処置、ベビーの体温が下がらないよう、急いで保育器へ。その後車から一人で降りてきた真里亜は、妙に落ち着き払っていた。 消防の救急救命士の申し送りでは、他の家族がいなかったにも関わらず、ベビー出産後の応急処置も完璧で、後は搬送するのみだったと言う事だった。十年働いている弥生でも慌てたのだ、その処置や態度が気になった。しかし他の患者への応対で、すっかりその事は忘れてしまっていたのだった。
「どうして夏川さんを……?」
 沈黙する真里亜。そんな彼女を黙って見つめる弥生。やがて根負けしたかのように、真里亜は口を開いた。
「ムカついたんです」
 簡潔にして単純な理由。
「私、この春に準看護学校を卒業しました。彼女は私の同期でした」
「看護師って繋がっていないようで、繋がっているからね。多分同じ学校だと思ってた」
 真里亜はうっすらと微笑した。
「私どうしても看護師になりたかったんです。正看の学校はお金がなくて入れなかったから、準看学校でしたけど。必死で勉強して成績はいつもトップを維持していました」
 微笑が苛立ちの表情に変わる。
「一回だけ夏川が人数合わせで来てくれって言うから、仕方なく行った合コンで、初めて会った男に無理矢理……妊娠が判ってからも、お腹を必死に隠して学校に通って」
「…………」
「二月の国家試験受けたかった。合格する自信はありました。だけど……」
「もう、隠せる状態のお腹じゃなかったのね」
 弥生の言葉にこくりと頷く。
「後はお決まりの展開です。両家の親同士が話しあって、とりあえず籍だけ入れて。ただ子供の為だけの結婚をして」
 子供は嫌いじゃなかったから、産む決心は出来た、と笑った顔が何故か哀しく見えた。
「藤澤さん、私見学授業でこのクリニックに来ていたんですよ。覚えていないでしょうけど」
 確かに覚えていなかった。今や母となった彼女は、白衣姿など想像すら出来なくなっている。
「自由時間もこのクリニックの器材なんかを、あちこち見学していたんですよ。ここで働きたかった……その後から産科の勉強を必死でしました」
 ふと真里亜は険しい表情になる。
「なのに、私なんかよりもずっと成績の悪い夏川が、ここの看護師になっていた。夏川はずっと遊んでた癖に、ちゃっかり就職。私は妊娠で無職。〈素人〉の私は一人でも、自宅で子供を産んで、応急処置も出来た。それなのに〈プロ〉の夏川は、現場でオロオロするばかり。腸が煮え繰り返るって、このことなんだなって思いました」
「……エルゴメの注射器はいつ手に入れたの?」
「分娩室で、産後の処置をしている時に盗みました。私には切開の必要がないから麻酔はいらなかったのに、あの馬鹿は用意してた。だから貰っちゃいました」
「じゃああの時一階にいたのは……」
 注射器を棄てに来ていたのか。ここの産業廃棄物処理室は一階にある。関係者でなければ分からない事だ。
「巡回に来た時に首を絞め、エルゴメを打ってふら付かせてから、もう一度首を絞めました。……でも嬉しかった」
「何故?」
「この病院で注射が打てたから……」
 血管がボロボロだと、あの刑事は言っていた。
 注射に不慣れな新人。何度もリテイクしたのだろう。
 子宮収縮の痛みに耐え、本来筋肉に打つ注射を、看護師志望だった女が静脈に打つ。何度も何度も、嫉妬と夢と挫折感を込めて――。
 その光景を想像すると、弥生の心の中は、やり切れなさで一杯になった。
「藤澤さん、私はもうすぐ警察に捕まりますよね?」
「…………」
「最後に私を〈新人〉って呼んでくれて、ありがとうございました」
 弥生に向かって真里亜は一礼した。そんな言葉一つからも、看護師という職務への熱意が伝わってくる。
 何故、命を救う仕事を志望している者が、新しい命を授かり、そして他者の命を奪わなければならなかったのだろう。運命の歯車はなんと残酷な事か。
(そういえば……。)
「ねえ、一つだけ分からないの。あの時ナースコールを鳴らしたのは何故?」
「え? 私は鳴らしていないです。分娩室前で事を済ませて、直ぐに一階に行ったんです。ここまで来て、もう嘘はつきません」
 誰も鳴らしていないナースコール。
 あのナースコールが無ければ。弥生はしのぶを探しに出て、そして真里亜は――。
 殺人を犯す程の嫉妬、母を想う子の叫び。そうとでも思わなければ解釈出来ない、不可解な出来事。弥生は自分の仕事が〈聖職〉と呼ばれる理由が、少し理解出来たような気がした。
 201号室のドアがノックされたのは、その時だった。

               ‐FIN‐

『MOTHER CALL』 3

  *

「それで藤澤さんは、一階で患者さんと一緒だった訳ですね?」
「はい……」
 朝八時。林産婦人科クリニックは、本日の外来は臨時休院となった。殺人事件が起こったからだ。新人が入ると荒れるとは言うが、ここまで荒れるのは想定外。
 死んだのは、夏川しのぶ。まさに〈新人看護師〉だ。首から下げていた聴診器で絞殺され、二階分娩室近くの廊下で倒れていた。聴診器から指紋は特定出来なかった。
 第一発見者は、看護師の坂本智美。智美は空き病室で、刑事から事情聴取を受けている。弥生も同じ様にこうして別室で取り調べ中だ。
 初老の男性刑事は、手帳を見ながら弥生に問い掛ける。
「ところで聞かせてもらえませんか? 看護師さんと言うのは、いつも手袋や薬をポケットに入れているものなのですかね?」
「その看護師にもよるし、状況によるかも知れません。事実昨夜はバタバタしていましたし」
 智美のナース服のポケットから、未使用の手術用手袋と薬が見付かったのだそうだ。
「ジアゼパムの5mg錠が二つ……安定剤の一種ですよね? 何故産科でこんな薬が?」
「それはドクターの指示で処方されます。ポケットに入っていたのは、何故かは分かりません」
 智美の馬鹿。弥生は心の中で罵る。昨夜階段で拾ったのはこの薬だったのだ。
 ジアゼパムは幅広く使われる薬だ。術前術後に緊張する入院患者に投与されたり、更年期障害等で精神的に不安定な患者に処方されたりもする。
 昨夜の恐ろしい程の忙しさ。智美は夜勤明けにぐっすり眠りたかったに違いない。普通の人なら一錠で充分な安眠効果がある。薬品庫に行った時に目に留まり、咄嗟に持ってきたのだろう。長年の付き合いから、弥生はそう直感した。
「しかしジアゼパムは注射ならともかく、飲んだからと言って直ちに眠るような薬ではありませんし、無理があるような気がします。それにいつどうやって飲ませるのか分かりません」
「ほう?」片眉を上げる刑事。馬鹿にされているような気分だ。
 智美の状況は最悪だ。薬、手袋。同じ職場の先輩と後輩。動機……。
 その時ノック音が鳴り響いた。院内で訊き込みをしていた部下が報告に来たのだ。
「坂本智美、アリバイあります。入院患者の一人が、廊下を走る坂本智美に声をかけようと後ろをつけていたそうです」
「どうしてだ? その患者は坂本をつける必要があるのか?」
「あの……」
 遠慮がちに弥生が声をあげた。
「授乳の為、じゃないかと思います」
「授乳? お母さんがおっぱいをあげるあれですか」
「はい。うちの病棟では、ベビーの誘拐などがないように、新生児室、授乳室は詰所を通らないと入れません。詰所を無人にする時は、必ず施錠するのが決まりになっているのです。多分患者さんは、授乳をしに詰所に行ったら入れなくて、それで看護師を探したんじゃないかと……」
 ふむ、と刑事は頷いた。報告を終えた部下に、改めて話を聞いてくるよう指示をすると、弥生に再び向き合う。
「じゃあ詰所は赤ちゃんだけだった訳だ。鍵は何本ですか?」
「二本です。私と坂本さんが所持していました」
「成る程。貴女は患者さんと一緒。貴女から見て、坂本さんと夏川さんの関係はどう見えましたかね?」
「別に……普通の先輩と後輩だと思います。夏川さんがうちに来てから、二ヶ月も経っていません。激しい確執があったとは思えません」
 言葉の通りだ。しのぶはせいぜい仕事の覚えが遅いくらいで、智美は言葉こそキツイが人柄は悪くない。うちの職員には、しのぶを殺したい程の動機を持つ人間はいない筈だ。
 バリバリと頭を掻くと、刑事は困ったような顔をしなから、取り調べを終えた。

  *

「分からないんですよ……あの後も聞き込みを続けた結果、坂本智美は完全なシロでした」
「はあ……」
 次の日、弥生はまたあの刑事に、クリニックに来るよう呼び出しを受けた。
「監察の結果、直接の死因は頚部圧迫による窒息なんですが、左腕静脈に注射跡があった。血管がボロボロだったから、暴れたのかも知れないなあ」
「…………」
 白髪頭の刑事は、頭を掻きながら続ける。
「それで血液を調べたら、手術に使う麻酔の類いの成分が検出されたんですよ。エルゴメトリン。どういう事なんでしょうなあ」
「……何をおっしゃりたいんですか?」
「いや、言葉通りですよ。どう思います?」
 刑事の目は、弥生の表情の変化を逃すまいと鋭く光っている。
「貴女、昨日ジアゼパムの事についても言及していましたし、何か病院関係者でないと分からない薬なんかがあるんでしょうかね」
 弥生は憤慨した。そんな事は少し薬識があれば誰でも分かる事だ。わざと怒らせて何を言わせたいのか。
「あの」
 荒げた弥生の声に被せる様に聞こえる、訪問者がドアを叩く音。刑事の舌打ちも聞こえたような気がしたが。ノックの主は入院担当の事務職員だった。
「藤澤さんに聞きたい事があって。急ぎなんですけどいいですか?」
 刑事は頷き、弥生はその場で話を聞く事になった。
 事務職員の話は、産業廃棄物の数がカルテと合わない、記入漏れか? と言う内容だった。
「そんな訳無い。使用薬剤は全部記入してるわ」
「でもこの患者さん、裂傷も切開もないですよ?」
 思わずカルテを覗き込む。
「ああ、この方は墜落産だったから……」
「ついらくさん? 何ですか? それは」
 それまで黙って聞いていた刑事が、口を挟んできた。事務職員が懇切丁寧に説明してくれる。
「墜落産と言うのは、院外で出産して運ばれてきた時にレセプトに書く、但し書きです。そうじゃないと医師が臍の緒を切っているのに、医療診療報酬上、不適当に……」
(墜落産。)
(そうか。)
 弥生は、全ての出来事が繋がったと思った。馬鹿にされる覚悟で自分の考えを話す。刑事は驚きながらも、裏付けを急ぐ、と言って慌てて駆け出していった――。

『MOTHER CALL』 2

 *

5/24 PM 11:50 
本人より痛みが十分間隔になったとTELあり。こちらへ向かうよう指示。ドクター上申の事。
5/25 AM 0:35
自宅にて破水とのTELあり。応急処置を指示。
AM 0:48――。
 書きかけて弥生は、ふと重い溜息をついた。
 新人が入ると現場が荒れる。
 師長の呪いの言葉が効いたか。医療現場で働いて十年経つ弥生だが、今夜程この言葉―ジンクス―を実感した日はなかった。
 ゆっくり出来ると思っていたが大間違い。何の因果か、患者三人が一度に産気付いて救急でやってきたのだ。こんな夜は滅多にない。
 分娩台では今すぐにでも産まれそう、玄関先には救急車と、ドクターと弥生と智美は目の回るような忙しさだった。新人のしのぶは、周りをうろうろするだけで精一杯。気が利かないしのぶに苛々した林ドクターは、八つ当たりの怒号を発する。しのぶは涙目で働いていたが、弥生はフォローしてあげる事も出来なかった。全てが終わり、弥生達看護師がカルテの記入に手を付ける事が出来たのは、午前三時を過ぎた頃か。
 弥生は、一夜で三人も増えた入院患者に呆気に取られる、厨房・事務職員のそれぞれの顔を思い浮かべた。 
 分娩室の全ての清浄を終えて、智美が詰所に戻ってきた。疲労困憊と記入してあるような形相だ。入れ違いで、疲れたと言い残し、林ドクターはクリニック隣の自宅で仮眠に入った。
「ただいま、弥生。ベビーは安定してる?」
 智美は看護師詰所と隣接している、新生児室を覗きながら言った。
「うん。皆予定日外の出産だったのに元気よ」
「よかった。これでベビーの救急搬送なんてあったら、私達体がいくつあっても足りないわ」
 林ドクターは小児専門医の資格は持っていないので、ベビーに異常が見付かった場合は、看護師が付き添いで、提携の救急指定病院に行く事になっている。弥生はその状況を想像し、眩暈を覚えた。
「あれ? 夏川さんは一緒じゃないの?」
「ああ、病室の巡回に行って貰った。流石に今日の清浄は可哀相だと思って。それにまだ仕事遅いしね。私せっかちだから怒ってしまいそうで」
 ついしのぶに同情してしまう。初めての夜勤がこれでは、さぞかし疲れた事だろう。
「今年は新人が一人だものねえ。どうしても夏川さんに目が行ってしまうのは、分からないでもないわ」
 例年、林産婦人科クリニックでは二人ないし三人の新人を採用する。今年は入職辞退者が出たらしく、今年の新人はしのぶ一人だ。大きな施設のある病院の方が人気あるのよね、と師長がぼやいていた記憶がある。
「ねえ、薬品庫は閉めてきたっけ?」
「あ、どうだったっけ。分からない」
「じゃあ私が見てくる。ここお願いね」
「ありがとう智美、助かる」
 個人のクリニックで一番取り扱いの薬品が多いのは、内科と産婦人科がいい勝負だろう。お産、性病、更年期に不妊治療。内科、外科、精神科……多岐に亘る分野の薬品内容。林ドクターは、デリケートな病名も多い診療科目だからと患者に配慮し、院外処方を行っていない。薬品庫の管理は大切な仕事のひとつだ。智美に施錠を任せ、弥生は再びカルテ書きに没頭し始めた。
 二十分程経っただろうか。弥生は、しのぶも智美も詰所に戻って来ない事に気がついた。そんなに広い病棟じゃないのに。何かあったのだろうか。
 その時、ナースコールが詰所に鳴り響いた。201号室。今夜緊急入院した、吉田真里亜の部屋だ。音声モニターで声を掛けるが返事がない。産後の後陣痛の痛みが酷いのだろうか。弥生は懐中電灯を持つと、無人の詰所に施錠をし、201号室に向かった。
 廊下の途中で、智美とすれ違う。伝えると、痛み止めの準備をしておくと言い、智美は詰所に戻っていった。
 吉田真里亜。弥生は頭の中で、どんな患者だったか反芻する。
 二十一歳、第一子目。
 確か〈デキ婚〉の筈だ。カルテの苗字部分に修正があった。かなりの週数になってから初めて外来を受診しに来て、林ドクターに怒られていた記憶がある。救急車で運ばれてきた時は、意外と落ち着いてくれていて助かった。救急車で来る患者は、パニックに陥っている場合が多いからだ。ご主人も付き添ってきてくれなかったみたいだし、痛みじゃなくて、不安があるのかも知れない。
 弥生はコールがあったその部屋のドアを開け、中に入った。
「吉田さん、どうされました?」
 ベッドに近寄ってみると誰もいない。病室は全部個室なので、トイレは部屋に付いている。まさか……脱走!? 慌てて廊下に出ると、薬品トレイを持った智美の姿があった。
「智美、201いない! 探して!」
「わかった!」
 カルテに要注意マークが付いていたのを忘れていた。きちんと受診に来ない患者は、産んだ後に病院から逃げる事もあるのだ。受診が出来ない、イコールお金が無いからだ。出産費用が捻出出来なくて脱走、この業界ではよく聞く話だ。
 二階の病棟から一階の外来まで一気に駆け降りる。ふと片隅の椅子に人影が見えた。
「吉田さん!?」
 懐中電灯で照らすと、まさに探していたその人だった。
「貴女どうしてこんな所に……」
 捕まえた。内心弥生は安堵する。
「すみません、ちょっと電話がかけたくて……」
 公衆電話機は一階にある。気持ちは分かるが。
「今日はまだ体を休めないと駄目ですよ。貴女は赤ちゃんを産んで、間もないんですから」
「誰にも言えずに入院しちゃったので……」
 子宮収縮の痛みもあるだろうに、そこまで電話がしたかったのか。私が連絡するから大丈夫よ、と話し掛け、病室へ帰るよう促す。真里亜も素直についてくる。脱走じゃなくて、本当によかった……明日の朝事務職員の方から、無理に動いて電話したりしないよう、家族に連絡を取って貰おう。階段を昇りながら、そう決めた。
(あれ? 何これ?)
 階段の途中で光る物。拾いあげてみると錠剤が一錠、シートに包まれて落ちていた。この薬は……。
 絹を裂く。まさにその表現がぴったりの絶叫が、二階で響いたのはその時だった。

『MOTHER CALL』 1

「それでは五月二十四日、夕方の申し送りを始めます」
 師長の号令で、林産婦人科クリニック・入院病棟の打ち合わせが詰所で始まった。
 本日の外来の診察は終了。検診に訪れた出産予定日真間近の患者の様子を、夜間勤務の看護師に伝える。出産は昼も夜もない。何時でも最善の準備で、患者を迎えなければならないのだ。
「師長、今日は出産予定日の患者は無しですね?」
 質問したのは、今夜の夜勤当番・藤澤弥生だ。看護学校を卒業し、このクリニックに入職して十年。そろそろ後輩も増えてきた。
「そうね、予定の患者は無し。ところで坂本と夏川はどうしたの?」
顔を見合わせる看護師達。確かにその二人だけがいない。
「夜勤者二人がいないんじゃ、申し送りにならないじゃない」
(うわ、智美何やってんの。師長が怒ったらどうすんのよ……。)
 弥生はまだ席についていない同僚にやきもきした。
「すみません、遅れました」
 詰所の扉を勢いよく開けて入ってきたのは、弥生の今夜のパートナー、同期の坂本智美だ。智美の後ろに隠れるように立っているのは、この春入職したばかりの新人ナース・夏川しのぶ。
「二人とも何していたの。申し送りの時間は厳守だって分かっているの?」
「すみません。でも夏川が」
「夏川がまた何かやったの?」
 半ば呆れ顔の師長。最近はこの台詞が増えてきた。脅えた弥生は下を向いて自分の気配を消すという、効果があるのかどうか全く分からない努力をした。
「師長、聞いて下さいよ。夏川ったら数が数えられないんですよ?」
「は? どういう事?」
 バツが悪そうに俯くしのぶ。構わずに智美は続ける。
「今日最後に受診に来た外来の患者さんへ、ピルの飲み方の説明をさせたんですけど、例えば八錠目は何月何日に飲むとか、具体的に日付けが出てこないんですよ。恥ずかしいったら。どう思います?」
「それは……」
 智美の勢いで、詰所の空気が淀んだ気がした。しのぶはいつも、こんな調子で智美に怒られている。
「ま、まあ、咄嗟に出てこないなんて私達でもよくある事じゃない。智美も夏川さんも早く席について」
 いたたまれなくなった弥生は、つい助け舟を出す。
「弥生はいつもそうやって、この子を甘やかす。最初が肝心なのよ」
「もうよろしい!」
 師長の一喝に、全員がすくみあがった。
「新人教育大いに結構。けれど看護師は時間厳守と報告が第一! 坂本分かった?」
「はい……」
「すみませんでしたあ」
 うなだれて智美は腰かけた。その隙にちゃっかりと自分の席につくしのぶ。
「それでは申し送りを再開します。再度確認しますが今夜の夜間勤務者は、藤澤・坂本の二名。準看の夏川は、今夜初めての夜勤なので、補助要員として入ります」
 弥生の職場はベッド数が十床、個人経営の産婦人科クリニックだ。夜勤シフトは通常二名で行う。今夜は看護師三名、ドクターは院長である林忠志一名の体制だ。
「藤澤さん、入院患者さんは一人だけだし、今夜はのんびり出来そうですね」
 申し送りが終わりメモをチェックしていた弥生は、しのぶに話し掛かけられ笑顔で応えた。
「そうね。今夜はゆっくり色々教えられると思うわ」
「藤澤さんって優しいから、私好きです」
「優しくなくて悪かったわね」
 横から聞こえた智美の呟きに、弥生はこの後の勤務の平穏無事を祈らずにはいられなかった。
「今夜は、暇なんて言っていられないかもよ」
 含み笑いの師長。弥生ら夜勤者三人を見ながら、意味ありげに続ける。
「『新人が入ると現場が荒れる』って言うからねえ……」
プロフィール

水崎沙亜乃

Author:水崎沙亜乃
竹の子書房社員・水崎沙亜乃の竹の子書房用作品倉庫。
このブログの作品の著作権は水崎沙亜乃に帰属します。

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